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わが家の「家庭の味」は?(正月編) ~三河萬歳もやってくる正月

2024.01.04

1960年代、ごく平凡な少年時代を送っていた。

 

大晦日。

 

母は遅くまでおせち料理を作っていた。煮物や栗きんとん、なます、黒豆、きんぴらごぼう、、、。

 

どれも作るのは大変だったと思うが、いかんせん、私の好物はほとんどなかった。
ひたすら、かまぼこをつついていた記憶がある。

 

父は決まって残業だった。
仕事が終わった後、さらに職場で打ち上げがあったようで、夜遅く酔っ払って帰宅するのが常だった。

 

元旦に誓わぬ「1年の計」

 

元旦。

 

前夜の紅白歌合戦のおかげで、子供たちの朝は遅かった。

 

初日の出にも、初詣にも、出掛けた覚えがない。主義主張があったわけではない。
単に、そんな家庭だった。

 

雑煮の準備がすむと、まずお屠蘇(とそ)の儀式が始まる。
年少者から順番に飲むのが決まりだそうで、いつも私が一番手だった。

 

その前に、毎年、父が「一人一人、今年1年の抱負を述べるように」と促す。

 

しかし、だれ一人従うものはなく、うやむやの内にお屠蘇、雑煮へと移るのだった。

 

今から思えば、正解だった。

 

1年の抱負を述べたところで、だれも覚えているはずがなかった。
紙に残したところで、年末までには失くしていたことだろう。

 

PDCA(Plan  / Do / Check / Action )を期待する術もなく、はじめから計画を立てないのは合理的な判断だった。

 

古き良き来訪者

 

正月の遊びといえば、当時は独楽(こま)、凧揚げ、福笑い、羽根つきが定番だったが、これらで遊んだ記憶はない。

 

大阪と東京で過ごしていたからなのか。
凧揚げをしようにも、学校の校庭まで出かけなければならず、そんな面倒をするはずもなかった。

 

小学3、4年あたりからは、正月の遊びといえば麻雀だった。
5人家族なので、交代で1人ずつ休みながら、午後を過ごした。

 

そんな、ある日。玄関の呼び鈴が鳴った。

東京、杉並でのことである。

 

母が応対に出て、やがて戻ってくると、家族全員が呼ばれた。
そこには、獅子舞の被り物を抱えたおじさんが、一人立っていた。

 

「明けまして、おめでとうございます。よろしければ、これから獅子舞を披露させていただきます」と述べ、玄関の外で一人で舞うのだった。

 

私たちは、ただ茫然として、見守るだけだった。

 

翌年。

 

今度は、三河萬歳の衣装をまとった二人組がやってきた。
前年の獅子舞と同一人物だったかどうかは定かでない。

 

「明けましておめでとうございます。よろしければ、これから三河萬歳を披露させていただきます」という。

 

三河萬歳とは、扇(中啓)を手にした「太夫」と、鼓を打つ「才蔵」が、掛け合いをしながら踊る芸だった。現代の漫才のルーツという。

 

「漫才」と聞いて、喜び勇んだ私だったが、何が何だかさっぱり分からなかった。
むしろ、そのことが衝撃的だった。

 

印象深いのは、両親である。
獅子舞や三河萬歳を見ながら、気もそぞろ。
ご祝儀相場を知らない両親にとっては、そちらの方が気になって仕方がなかったのだろう。

 

まじめで小心者の性格は、今の私に引き継がれている。

 

正月明け

 

社会人となり、子供も生まれると、正月は家族で大阪の実家に出向くのが習わしとなった。

 

父はすでに亡く、当時は健在だった母が家を守っていた。
年老いて、おせち料理はもっぱら百貨店から取り寄せるようになっていた。

 

値が張るものもあったようだが、相変わらず私の好みのものはほとんどなく、妻もあまり得意でなかった。
子ども達も、お団子(?)の取り合いばかりをしていた。

 

三が日が明け、東京の自宅に帰り着くや否や、毎年、インスタントラーメンを食べ、おもむろに「あ~、今年もいい正月だった」と呟くのが習慣となった。

 

子供たちにいま「正月の家庭の味は?」と尋ねれば、おそらくこう答えるだろう。

 

インスタントラーメン!、と。

 

果たして、これでよかったか?

 

(イラスト:鵜殿かりほ)